梶野茶業

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NOSTALGIA FOR
OUR HOMETOWN

京都府の南部のまち加茂町山田。
八〇〇年前から続く京都府最大の宇治茶の産地で代々受け継がれる昔ながらの味。この土地に生まれ、父から子へ継がれる大地を守り、ゆっくりと流れる自然の中で、時代を経ても変わらない、地元の日常の味を気取らず、お茶の間にお届けします。

PRIDE

KAMO : YAMADA

新茶収穫の時期に起こる、
里山の深い霧により生まれる霧香を纏う
京都南部の宇治茶の産地のなかで、
加茂山田のお茶は、希少なかぶせ茶の
継承地として歴史を今に繋いでいます。

The SCENT of FOG

京都の南部、八〇〇年前から続く京都府最大の茶産地エリア。そのさらに南にある加茂町山田。和束と加茂の間に流れる木津川から昇る霧により生まれる「霧香(きりか)」と呼ばれる独特の香りを纏う、日本有数の高級茶葉:宇治茶の生産地です。
新茶収穫の時期、日中と夜の寒暖差で、この谷合の地は深い霧に覆われます。この立ち上る霧により直射日光が遮られ、茶葉の旨味・甘味の成分となるテアニンの変質を防がれることで、ほどよい甘味を残したバランスの良い茶葉となります。地元では「霧香」と呼ばれ、和束や加茂でできるお茶は、霧の香りがすると言われています。

kamo : yamada kabuse

加茂山田は、宇治茶の生産地の中でも、昔から「かぶせ茶」の生産を今に繋いできました。
かぶせ茶はその名の通り、摘み採る前の茶葉に寒冷紗(かんれいしゃ)と呼ばれる布をかぶせて栽培されるのが特徴です。玉露や碾茶(抹茶の原料となるお茶)もこの方法で作られるお茶です。
摘採前の1週間〜10日前に、布をかぶせて日光を遮ることで、茶葉の中のテアニンがカテキンに変化しにくくなり、渋味や苦味が抑えられ、旨味や甘みが強いお茶となります。
全国茶生産団体連合会によると、日本茶生産量に占めるかぶせ茶の割合は約4.2%ほどです。(令和元年度調べ)

PRODUCT

SINGLE ORIGIN

MAZI

険しい山間部、加茂町山田柿木平。
その過酷な山肌に作られた茶畑、その名も馬路(まじ)。
まさしく自然そのままの環境で育った畑です。
栽培・収穫ともに一番手がかかるお茶。
野太い芯がありながら、繊細な後味を残します。
昔ながらの味、是非お楽しみください。

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KENTOKU

標高200mにある、加茂町賢徳(けんとく)谷の茶畑。
爽やかな日差しと朝露に育てられた、
単一農園・単一品種のシングルオリジンかぶせ茶。
新茶ならではの迫力を伴う口当たりの後、
木陰の風のような甘みと香りが追いかけてきます。
景色が見えるような荒茶の風味をお楽しみください。

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BULL

木津川沿いの山懐に抱かれた秘境。
その奥に、ずっと変わらない隠れた絶景があります。
かつて11人の先人たちが鍬とブルドーザーで開墾した
広大な茶畑、通称ブル畑。
丘に広がる巨大なパッチワークは、
その姿を変える事なく毎年美しい新芽に彩られます。

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HISTORY

of kajino chagyo

梶野茶業は、初代の梶野富蔵が1897年(明治30年)に加茂山田の地に創業しました。
この土地でしかできない「加茂山田のかぶせ」の歴史と味を、丁寧に現代のお茶の間にお届けします。

1877年 -1941年

初代富蔵(とみぞう)が土地仲介業を生業としながら、この加茂山田の地で製茶業を始めました。
明治5年、地所永代売買禁制が解禁となり、初代富蔵は、今で言う不動産仲介業を生業としていました。その折に、当時から高級茶葉の生産地である和束の南、加茂山田に大規模な耕作地を手に入れたところから始まりました。

1899年 -1958年

初代富蔵(とみぞう)が土地仲介業を生業としながら、この加茂山田の地で製茶業を始めました。
二代目兼松(かねまつ)が初めて屋号をつけます。屋号を“松樹園”として茶箱なども整えさらに生産量を拡大していきました。また、当時のエピソードとして、兼松はバタコと言われる手動の発動機を買い付けて村に持ち帰リました。当時村では手作業で製茶作業を行なっていましたが、このとき村で初めて製茶の機械化を始めました。

1923年 -2000年

三代目良治(よしはる)は、屋号を”梶野製茶園”と改め、茶葉を製茶する茶工場を設立しました。そして収穫面積をさらに広げましたが、二代目兼松が急死したために、兼松の得意先を引き継ぐことができず、また先代が得意であった商売が不得手であったため、JAの競りへ出荷するようになりました。この時のメインの問屋は福寿園でした。

1952年 -

四代目元良(もとよし)の代になり、さらに大きな茶工場を設立、収穫面積をさらに広げ一時は3ヘクタールまで土地を広げました。土壌もよく品質の良い茶葉は競りでも高い値段がつきました。昔ながらの製法に拘り、「加茂山田のかぶせ」は競りでは高く評価されましたが、10年前ごろから人手が足りず徐々に減産し、村全体も継ぎ手が減り、現在の五代目にバトンが渡りました。